小袖

 

今日はお休みの日ですので、すこし横道にそれた小袖の話をお聞きいただけますでしょうか。小袖は、もともと十二単のような貴族のきものの防寒のための下着でした。荘園制度に支えられていた貴族層が、武士階級の台頭とともに没落してまいりますと次の時代の主役になった武士階級は、装飾性の高い衣装を身に着けて日常の生活をしているわけにはまいりません。奥方といえども亭主の留守を守って戦闘に携わらなければならないのですから活動的な装束が求められます。日常の衣装としての小袖は主役になってまいります。もともと小袖は防寒のための下着ですから、袖口は絞られ、振り口は開けません。また、身丈は身長に合わせた長さです。一般庶民は平安時代からずっと麻を主とする繊維を用いた小袖のような様式のきもので江戸時代もすごしています。江戸時代に入り、商人や農民、工業に携わる人たちの中で、富裕層が芽生えてまいります。主役の交代が始まりました。貨幣経済の発達にともない裕福になった商家では衣装には惜しみなく大金が投じられ、金箔銀箔の摺り染めや、鹿の子絞りなどの手のかかった豪華なきものが作られてまいります。上の写真は小袖のひながたと呼ばれる柄の見本なのですが、防染糊の開発で友禅染めが一般化しますと、どのようなデザインでも染めることが可能になり、江戸初期には柄染めは花開いてまいります。華麗なデザインが染められるようになるのと同時に、簡便な労働着であった小袖が装飾性豊かな衣装に発展してまいります。まず、身丈が長くなりました。柄が大きくなり、豪華になるにつれもっと目立つ大きな柄が求められます。身丈を長くしていわばキャンバスとしてのきものの自己主張を助けるような過装飾性の方へ進んでまいりますのは平和な時代としては当然の成り行きかとおもいます。二番目の写真は徳川家康公が着用なされた小袖です。(国立博物館所蔵)武将も威厳と華美で最大限の自己主張をいたします。信長公の左右の身がちがうきものとか、伊達政宗の伊達者といわれるほどの目立つ衣装など今日まで名が残るようなきものはおしゃれだけが目的ではなく権威付けも大きな目的ではあったのです。戦争というものが無くなった江戸中期にかけて流通経済の発達した都市部を中心に、富裕層の女性の小袖は身丈が長くなり、袖丈が長くなるにしたがって振り口がうまれ、家の中では裾を引きずって歩けるのですが、外出時には身丈をたくし上げて抱え帯で腰に結びます。お端折りの始まりです。庶民は江戸中期には木綿の量産が進み、藍との相性の良さから小紋として、また織の絣りの発達などでそれまでの麻の無地や絞りからから大きな脱皮をして、寒さからも柔らかさからも格段に豊かな衣に恵まれるようになってまいります。元禄時代に今日のきものの姿がほぼ完成して、おおきな基本的な変化はなく現代になっています。最近、きものの衰退がよく語られています。当事者の呉服屋としては悲しいことですが、わたしはその原因の一つに、きものの過装飾性があるとおもいます。日常性を考慮しないより高価なきものこそが本来のきものの価値だと宣伝し続ける業界は愚か者の集まりだといって過言ではないとおもいます。わたしも最近はその一人に成り下がってしまいましたが、すくなくとも過分な利益はいただかないよう自らに課しております。自分の重みに耐えかねて自滅の道を私たちの業界は歩んでいます。いちどほとんど滅びるであろうと思いますが、これだけの美の源泉である染織ですから、いつかまともな人たちの手で再建されると信じています。