琳派Ⅱ

琳派の初代と言われる俵屋宗達の生きた時代は、貴族から武士への権力の転移が起きていたのですが、同時に町衆と呼ばれる富裕な町人がうまれ、日本はとても活発な経済の活動期であったとおもいます。ご朱印船と呼ばれる中国との貿易ばかりでなく、東南アジアとも盛んな往来があり、ヴィエトナム、フイリピン、カンボジアなどには日本人町が出来ていたほど盛んな往来であったと思います。(家康と安南王との書簡の往復があったことでも、当時の雰囲気がわかるように思います。)また、当時の日本は世界的に屈指の金や銀の産出国であり、マルコポーロの東方見聞録に申します、「黄金の国ジパング」はあながち誇張ではなかった時代なのだとおもいます。このような富を背景に、町衆は自分たちの好みに合った新しい芸術を望んだのではないでしょうか。日常の生活の中で身近に置いて楽しめるもの・・・屏風絵、扇子に描いた絵画、色紙、短冊、団扇にまで一流の絵師が絵を描きます。硯箱から陶器までまた、きものの小袖も新たなデザインが生み出されます。茶の湯、能狂言、生花また、数寄屋造りと呼ばれる建築様式もこの時代にうまれています。武家や貴族の御用絵師の土佐派、狩野派と異なる自分たちの好みの芸術を望んだのではないでしょうか。では、琳派の芸術とは一言で何なんでしょうか?一つには豊かな装飾性にあるといわれています。わたしは端的に、目立って格好いい感覚・・・と自分で思っています。写実性よりも見せたいものを誇張してでも訴えているのではとかんじています。専門の先生方はくわしく研究をなさっておいでですから、多くの解説書を読んでいただくこととして、琳派の評価は明治になるまでは低かったようです。生活美術・・・つまり本格的な芸術ではなく、町人の日常生活に用いられた一段低い美術であり芸術だ・・・と評価されていたようです。明治期になり、外国に紹介されたり、外国の人が日本に来て、浮世絵をはじめとする一般大衆が日常に用いている文化に触れて、次第に琳派の評価が高まった・・・ようにおもいます。日本の民度はとても高く、宗達、光琳を受け入れ、日常にまで生かすレベルにあったのだと思います。じっさい、宗達の屏風絵は格好いい・・・です。風神雷神図でも、いつまで眺めていても飽きない躍動感、引き締まった構図、金泥の上に描かれた華麗な色彩。決して行儀のいい絵ではないかもしれませんが、見る人の気持ちをぐっとつかむものがあります。

写真の絵は宗達の神楽を描いた屏風の絵です。家内の留袖はこの絵からデザインをいただきました。ローケツの堰出しという手法で染めてもらています。