思索から実践へ。

自分でホームページを読みまして、我ながら拙い文章にあきれています。わたしの理解不足でやさしく説明ができていないのです。特に、縁起と四聖諦、六処、五蘊の密接な関係など大切な部分ですのに、充分に申し上げれているとはおもいません。ただ、仏教の核心の部分で、わたしにとっても難解です。踏み込みますとおしゃか様のお考えについてもっと申し上げねばならなくなるのですが、そのようなことは私にできることではございません。一つの国の王子様であられた方が、すべてを放棄なさって、出家をなされました。わたしが同じ心を持つことはとてもできるようなことではありません。理解できなくてもご容赦願いたいと思います。でも、おしゃか様が布教に入られてからの社会に与えた影響は大変大きく、いくら讃えても多すぎることはないほど大きいと思います。わたしは二つの大きなテーマがあるように思っています。一つは、それまでの地縁や血縁の意見や習慣、また、人は確固とした霊魂を持ち、祭式で天に生まれ変わらせることが出来ると主張するバラモン教や同じように霊魂を持ち、修行によって汚れを払い、解脱に至ると主張するジャイナ教、あるいは人間は諸要素に還元されるのだから、実在はしないと主張する唯物論などがインド社会の思想の多くの部分であったのですが、仏教は大きく違った価値観を提供したと思います。仏教では霊魂に相当する実在する自己を認めませんでした。仏教でなぜ実在を認めないのかをご説明するためにながながと拙い文を辛抱してお読みいただきました。六処とその対象を合わせて十二処を仏教では一切と申しますが、私たちには自分にとっての一切が十二処であり五蘊です。でもそれは真実ではありえません。したがって仏教では、人は諸要素の集合体に過ぎず、霊魂のような諸要素を統一する主体は存在しないと主張いたします。この点はバラモン教やジャイナ教の主張とは対立いたします。しかし、おしゃか様が説かれましたように、人は渇望を経て執着が起こり、その飽くことなきエネルギーで生存が繰り返されます。この渇望から執着が起こり、生存を作り上げているという思想は当時の古代インドでは初めてであり、とても大きな影響を与えました。それは、生存そのものは繰り返し繰り返し「自己を作り上げる」ことによって成り立っている。という意味です。自分で自分を作り上げる・・・ということは、自分が意思を持ち、行為(実践)すれば将来は自分の思い描いたようになる・・・という意味でもあります。この生存に関する新しい思想は今までの決まった価値観からしか選択できなかった自分の生き方が解放された・・・つまり、個人が自分の生き方を自分で選択できるという意味でもあります。仏教の主たる支援者が知識人、商人、地主層などの都市の住民であったことでも証明されているとおもいます。経済が発達し、今までのバラモン教的な生天思想や、苦行で自己を鍛錬する思想では時代の閉塞感は解放できなかったのだと思います。新しい革命的ともいえる思想の誕生だっのではないでしょうか。おしゃか様が唯物論者の主張する実在は無いという極端もバラモン教の霊魂は存在するという極端も選択しない、わたしは中道を歩む・・・とおっしゃられましたことが、このような意味合いかどうかはわかりませんが、私たちは確固たる不動の霊魂をもった存在ではなく、十二処や五蘊に支えられ、渇望から執着を持ち、一生自分を形作りながら生きてゆく存在なのだとおしゃか様はおっしゃったのだと思います。霊魂があった方が楽そうに思いますがそれは望めないようです。

もう一つ、お釈迦様の残された大きな遺産があると思います。こちらの方が世界的影響を与えているかもしれません。「自律」自己を作り上げる方向についてです。実践として今日の私たちにまでおおきな影響を与えています。そして、もっとも注目してほしい遺産だと思います。