四聖諦、縁起、六処、五蘊。

お釈迦さまは四聖諦の瞑想で悟りを開かれたと伝えられています。お釈迦様御自身、そのように弟子たちにおっしゃったとお経では伝えています。四聖諦、縁起、六処、五蘊は角度を変えて私たち人の成り立ちの根源を思索を通して明らかにしたもので、仏教の根本的な思想だと思われます。その中の一つ、六処について簡単に申し上げたいと思います。わたしたちは視覚器官の目、聴覚器官の耳、嗅覚器官の鼻、味覚器官の舌、対象に接触する「身」、心である「意」の集合だとお釈迦さまは説かれました。この六つの器官が対象と接触してさまざまな感受が生じます。その感じたことを真理だと思ってもそれは自らの経験や見解が拠って立つところは六つの認識機関にすぎない。この六つの認識器官とその認識対象の六つ、目の対象としての色・形、耳の対象としての声、鼻の対象としての香、舌の対象としての味、身の対象となるのが触覚、意の対象となるのが心的対象となる法です。六つの認識器官とその対象の六つ、十二の拠り所を離れて私たちは認識することはできません。この十二の拠り所を離れては根拠のある言説は成り立ちません。ですから、バラモン教の主張するブラフマンという神、そして梵我一如としてブラフマンと合一するアートマンを認めることは根拠のないことで、仏教では認めません。わたしたちは日常の生活のなかで確かに自己だと思える個体の存在を感じています。でもそれは六つの認識器官の束が感受しているに過ぎないと仏典は伝えます。ではその認識器官は確かなものとして存在し続けるのしょうか。お釈迦さまはその不確かさをお経の中で述べておられます。