小袖

現在私たちが着ているきものは小袖の変化したものですが、いつごろから今の形になったのでしょうか。それほど古い話ではないようです。駆け足で1200年ほどの小袖の変遷を見てみましょう。最初は平安時代にさかのぼります。美しい衣装として知られている十二単は貴族の装束でした。袖は袖口を縫わない平袖(大袖)でした。寒さを防ぐための下着に袖口を小さくした小袖を着ました。その小袖が貴族階級の没落にともなって少しずつ活動的な表着として地位を獲得してきました。庶民は最初から表着としても小袖のようなものを着ていました。貴族の没落と平行して武士が台頭してくると活動に適した小袖を主に着るようになります。次第に小袖の上に重ね着を省略して、儀礼用の衣装を身につける簡略化が進みます。女性も動くのに適した小袖が主役になってまいります。支配階級の女性の間では小袖の上に打掛けを羽織れば礼装になりますから簡便でそれは流行るのもとうぜんでしょう。
畳が普及するまでは、男性も女性も正座の習慣はなかったようです。胡座や立て膝だったようです。(朝鮮半島では現在も多くみられます)
そのため身幅は広めでゆったりとした形で、身丈も身長に合わせた着丈でした。繰越もなく男性のきものと基本的には変りません。
江戸期に入り、畳の普及も進み、正座の習慣が一般的になります。富の蓄積が進み町人の中の富裕層は木綿から絹へと着る素材が変っていったのであろうと想像できます。もっとも、労働階級の衣服は木綿が主だったのでは・・・と私は考えています。九州の久留米絣、四国の伊予絣など木綿の素晴らしい織物が発達しているということは大量な需要があったからだと想像するからです。
さて、女性の小袖は元禄のころに大きく変化します。紐や細帯を腰骨にかけて結んでいたのですが(男の着方と同じです)、しだいに帯の幅が広くなりました。歌舞伎役者の真似から大流行したようです。わたしは、もう一つ、花柳界の影響が大きかったのではないかと思っています。(昭和の時代でも、たとえば京都の花街はお客さんの目が肥えています。花柳界のきものが流行を作り出していました。)江戸の花柳界で帯幅が広くなり、とても新鮮で魅力的にかんじられたのではないでしょうか。現在の帯結びの主役、お太鼓は深川芸者が広めたことは知られています。幅の広い帯を腰の位置に締めてはバランスが悪く、帯は上に締められるようになってゆきます。それでもおしゃれ心は満足でなく、裾も長くなってゆきます。慶長や元禄のころのきものの柄を見ますと、現在より大きな訪問着のような柄があります。身丈を延ばしてより大きな柄を着るのが流行になったのではないでしょうか。すばらしい柄や染めを見てもらうために、裾を引きずりながら生活した人たちが多く居たのは事実でしょう。外出時には不便ですから腰紐で裾を帯の下の位置でからげたのがお端よりの始まりだといわれています。
茶摘み唄で知られる茶摘みの衣装は木綿の紺絣を裾短に着ています。労働着は地味派手はあっても、だいたいあのように活動に適した衣服であったのではないでしょうか。
明治に入って伊勢崎や秩父で銘仙が織られます。安価で普段に着られる絹が大量に生産されるようになり、絹は身近になってきました。わたしの二十台ではまだ「お蚕ぐるみ」という言葉が生きていました。上から下まで絹というのはやはり庶民の夢だったのです。
振袖なども昭和三十年代の半ばからほとんどの成人の娘さんが成人式に着るようになっています。
このようにご覧いただきますと、きものは常に変化し発達しています。着付けも美しく、街の景色に花を添えています。今後もきものは変ってゆくと思います。みなさんが、愛して着ていただきますと、皆さんの望みのようにきものは変ってゆくでしょう。