
黄梅院は拝観できませんので、本堂の周り縁から見たこの写真はめずらしいかもしれません。左へ広がりがあるのですが、一枚に入りませんでした。本堂の襖絵は雪舟のお弟子さんの手になるそうですが、コピーなのだそうです。原本は博物館にあるとのことでしたが、とてもコピーとは思えませんでした。模写ではなく、コピーなのだそうです。ちょっと驚きでした。

門を入り本堂を望みます。余分もなく、足らざるもない禅寺らしい引き締まったたたずまいを感じます。

黄梅院は拝観できませんので、本堂の周り縁から見たこの写真はめずらしいかもしれません。左へ広がりがあるのですが、一枚に入りませんでした。本堂の襖絵は雪舟のお弟子さんの手になるそうですが、コピーなのだそうです。原本は博物館にあるとのことでしたが、とてもコピーとは思えませんでした。模写ではなく、コピーなのだそうです。ちょっと驚きでした。

門を入り本堂を望みます。余分もなく、足らざるもない禅寺らしい引き締まったたたずまいを感じます。

なき母の法事に久しぶりに黄梅院を訪れました。一泊でしたので翌日は東山の南禅寺界隈を散歩しました。南禅寺から銀閣寺まで、哲学の道を歩いたのですが、紅葉は大徳寺が見事でした。写真は黄梅院の庭です。


最近しみじみと思います。日本人の感性は数百年の蓄積を背景にしていて、一世代や二世代の停滞では崩れはしない・・・・と。伝統とはその奥にたいへんなエネルギーを持っているもの・・・・ですね。染めや織りへの感性はすごい・・・・とおもいます。いま、京都の生産の現場では悲観論が大勢を占めています。でも、能も明治の初期には滅びの寸前でした。落語も戦後死に絶えようとしていました。世阿彌は「風姿花伝」の中で、”時に用ゆるを以て花と知るべし”と述べています。苦労の一生を通して得た真実なのでしょう。

いぜん、山城さんという唐織りを得意とする名門の機屋さんにデザインから起こしてもらおうと伺ったことがあります。参考に・・・・と蔵から今まで織った端切れを出していただきました。その質と量に圧倒され、途中でもうこれで充分です・・・・と申したことがあります。たいへんな蓄積で、その推移を伺うと、大正期から昭和にかけて需要を背景に爆発的に織りが発達していたことがわかります。俗に目が肥えると申しますが、このレベルの帯を組み合わせない小袖に、着る主体の女性たちが魅力が感じられない・・・・のも当然なのだ・・・と納得した覚えがあります。帯の発達は同時にきものの着方の大胆な変化も抑えているように思っています。
写真はさのやさんのスクイの帯なのですが、いまは織りません。スクイはいまは多くを中国で作るのですが、この絵心は表現できません。それぞれに国民性はあるようにおもいます。この感覚が評価されるには十年あるいはもっとかかるように思います。

小袖を着た姿は長じゅばんを着ているよう・・・・と言われますと、なるほど・・・・と思う面もあります。紬地で作りますと腰があるのですが、ちりめん地の素材はすこしやわらかです。小袖の時代はお召しなどすこし張りのある生地が多い時代でした。当時の小袖は現代ではジーンズが代わりとなっている・・・・たしかに小袖でスキーは滑れません。けっきょく、小袖は海外旅行なさった時の簡易きものとしてお使いいただいた結果に終わりました。もう一つ、わたしなりに小袖が着ていただけない大きな原因に気付いていました。

もう三十年も前のころでしょうか、このままでは日常からきもの姿がなくなる・・・・と思って、古い小紋や紬などを着っ丈のきもの(小袖)として着ていただこうと、仕立て替えて着ていただいたことがございました。ガウンの代わりにもなり、朝起きて、パジャマの上からそのままお召になれますし・・・・でも、海外旅行の時に手軽なきものとして利用価値はありました・・・・と評価されたくらいで、日常には定着いたしませんでした。

日本の衣裳の歴史はそうとう研究され、ほぼその時代時代の生活ぶりが想像できるほど解明されています。衣裳は生活に密着していますから、生活の変化は衣裳の変化につながっています。でも、きもの(衣裳・キヌモが語源です)は元禄時代から基本的には変わっていません。たくさんの理由があるでしょうが、ひとつの大きな原因は、きものの完成度の高さにあるように思えます。
