1、無明は二つの本能についての根源的無知である。一つは生来の、生物的、遺伝的な本能。もう一つの本能とは、生来の本能を増強する人に固有の無明で、言語によって自己と世界とを認識することを指す。言語習慣、言語表現は「第二の本能」となる。人間はこれら二つの本能が自分(アイデンテイテイ)や世間(ソシアルテイー)という虚構を作り出していることを知らない。無知であるがゆえに、そうした虚構に執着し、盲目的生存欲を湧き立たせる。この無知によって、人は行為への意志に駆り立てられる。この意志を行という。
最初からなんとも難解な話ですね。これでは12もの縁起なんかなかなか親しめません。でも、この言語の問題は欧米でも日本ででも仏教とは関係なく、大きな哲学のテーマになっているのですが、一冊や二冊の本で論じて結論が出るような問題でもありませんので、わたしは見ないふりをしています。真剣に考えると気が変になってしまいそうになります。
2、行によって識が生じる。行に突き動かされ、「分けて知る」行為が開始される。識とは事物を分別する作用のこと。これによって自己意識も世界意識も萌芽する。言語による分節化に向かう根源的欲動の生起。言語習慣の濫觴。
3、識によって名色が生じる。自己の分節化と外部世界の分節化が進み、それらは名と色、名称とその対象に分かたれる。名は、言語表現として内的に固定化された諸事象のこと。色は言語によって分別され、対象化された諸事物のこと
4、名色によって六処が生じる。この六処とは眼、耳、鼻、舌、身、意の心身の認識器官および認識機能を指す。眼、耳、鼻、舌、身が感覚機能であり、意が意思作用である。これらの器官の、部位としての識別もまた分別の所産であり、かつこれらによって心身の内外のデータが集められ、言語による分別化が巧緻化されてゆく。