退院いたしました。

おはようございます。みなさまお元気でおすごしのことと存じます。わたし、3月の4日に入院いたしまして、狭心症のカテーテル手術を受けて、冠状動脈にステントを入れていただきました。一番太い動脈がまったく通っていなかったのですが、おかげさまで血の通った体にかえりました。下肢が冷たく、感覚もしびれているような状態でしたが、足があたたかくなり、足の裏まで感覚がもどりました。もっとも、いろいろなことが起きるようで、お医者様はとても用心深く様子をお訊ねですが、まず私の苦しさが緩和したのがなによりもうれしいことでございます。今後どのように・・・といろいろ考えますが、家内も難病、わたしも特発性肺腺維症という難病でございます。みずからの状態を考えて、ほどほどに生きてまいりたいと念願いたしております。でも、みなさまにお目にかかれる機会が月に一度でもある楽しさは何ものにも代えがたいほどの生き甲斐でもございます。みなさまの足手まといにならないよう努力をしながら楽しい日を過ごさせていただければ幸いでございます。どうぞよろしくお願いいたします。

手描き小紋Ⅱ

 

 

この小紋は寛文小袖と名前を付けて、数年前に染めたことのある柄です。昨日の小紋と並んで手描きの小紋として設計されていました。みなさまは昨日の小紋とこの寛文小袖とどちらが重い加工かお見分けがつきますでしょうか?こちらの寛文小袖のほうが重い染めなのです。一つには、鹿の子の小粒の柄がございますが、手描きですので、この小粒の鹿の子の柄も全部糊を伏せなければなりません。鹿の子を手で伏せるということは、他の部分の柄もそれ相応に細かく、目鼻立ちをはっきりと描く構想で図案の設計をいたします。また、職人も重い柄と取り組む気持ちで向かい合います。司令塔は染屋のご主人です。彼の指示でものつくりが進んでまいります。この反物の染め上がりについて、いろいろな感想を申しておりましたら、ちょうど湘南からお越しの若いお客様がお気に召し、お求めいただきました。さすがに付け下げくらいの値段になりましたが、今後染めることも出来なくなりましたので、幻の小紋になってしまいました。付け下げより取り組む時間は長くかかります。職人の方も、また、染め屋さんとしては経営的には付け下げを選択なさりたいでしょう。香り高い素敵な小紋でございます。このような小紋をつくるところもまだわずかですが残ってるんだ・・・と申し上げたくご覧いただきました。

手描き小紋Ⅰ

 

 

先月から申し上げておりました手描きの小紋が染めあがってまいりました。さいごの作品になりますがどうぞご覧ください。私たちの年代の人間は、どうしても職人へのこだわりがあり、好きなタイプがあるのです。このような小紋は付け下げを染める職人でなくてもできるのでは・・・と思うのですが、何十年も最上のものを作りたい・・・と思って日を過ごしてきた者は、どうしても妥協ができないのです。落としてものを作るのなら作らない方がいい・・・と思うのです。それくらいの気持ちが無ければ、仕事はどんどんレベルが下がります。この柄は2尺5寸の柄を下絵として描いています。ガラスの間に挟み、下からライトを当てて図案の上に生地を置き、ゴム糊で糸目を置いてまいります。一反ぜんぶ糸目の糊を置いて、柄の部分に防染の糊を伏せます。次いで地の色の染めに入ります。わたしはこの反物はブルーを基調に染めてもらいたかったので、色は厳密にではないのですが、指定いたしました。地色が染まりますと、蒸気で蒸して色を定着させ、柄の部分の糊を洗い、柄の色の手描きに入ります。この色挿しがきものが生きるかどうかの職人の感性です。つい、目立ちたくて強いタッチの色を挿したくなるのですが、お召しいただくお客様が、何十年も付き合って飽きの来ない品の良さが求められます。色挿しに入りますとわたしは一切口を出しません。染め屋の親方と職人の間のやり取りを信じてお任せいたします。途中でストップをかけました・・・と聞くこともあり、職人の感性を特に褒めておられることもあります。一つ一つがその時のベストを尽くして染めています。この柄はもうおひとり、違った感性の色挿しでおつくりいただいているお客様がおいでです。いま、色挿しまで進行していますので、染め上がりはお客様のご了解をいただいてご覧いただきたいと思っています。わたしはこの染め上がりは、自分の最後のこのクラスの作品として、とても満足しています。みなさま、着てみたいというお気持ちがございましたら、ぜひ声をかけてください。ご覧いただいた通り、付け下げを染めるよりうんと手間はかかっていますが、けっして付け下げほどの値段はいたしません。なお、生意気を申し上げますが、大手のたくさん染めるような染め屋さんではこのような作り方は出来ません。一つ一つを手作りで染めている染め屋さんで初めて手掛けることが出来ます。いくら京都が大きな染めの世界を持っているとはいえ、このような作り方は出来なくなってきていることはだれしも感じているところです。

考えてみますと。

仏教などと申し上げて、いまさらに反省いたしております。おしゃか様が説かれた自律のうち、為してはいけないことは、いつの間にか、自己責任から遠く離れ、警察権力の摘発にうつされ、罰も法律の役割になりました。欲望とそれを自己抑制するバランスは必要がなくなりました。法に触れなければ何をしてもよい・・・時代に、おしゃか様など持ち出して・・・と笑われてしまいます。とくに最近は国家そのものが欲望むき出しで、恥じるという感覚が無いように見えます。将来への希望と申しますか、明日は世界は楽しく住みやすい世界になる・・・とおもえない状況はなんとも悲しくて、ふとおしゃか様がなんとも暖かく思い出されて、つたない文をご覧いただきました。わたしの師は加賀山さんとおっしゃられて、真言密教に進まれました。とうぜん、霊魂は存在するとお考えでした。わたしは最後まで疑念を持ってお話を伺っていましたが、絶対に霊魂は存在しないととも思ってはおりません。人が知っていることなんて、宇宙全体の2%か3%くらいらしいですから、自分の十二処、一切と同じようなことで、真実そのものとは距離があると自分で思っていないと大きく間違うのではないかと思っています。明日からは元の自分にかえって、好きな染めや織の話にかえりたいとおもいます。はやり病にかかっていたのだとお考えいただき、以前のように呉服屋としてお付き合いいただければ幸いです。

おしゃか様の人柄

おしゃか様の日常につぶやかれた言葉など、普段の生活の中でどのようなことをおっしゃっておられたかを集めた感興のことばなどを拝見しますと、おしゃか様のお人柄がしのばれます。お経で拝見するとおりの生きとし生けるものへの限りない愛情に満ちておいでです。わたしの仏教との接点は、ある僧侶の方にお目にかかり、毎月一度自宅へお越しいただき、いろいろなお話を聞かせていただいた十数年の経験だけです。東北大学のインド哲学から雲水経験を経られて、真言密教に進まれ、葬式坊主になることを嫌われ、独立して布教をなされていました。いろいろなお話をお教えいただいたのですが、「仏教とは、子を抱いた母の姿です」とたびたびおっしゃられておいででした。いまさらに深い意味があるんだな・・・と感じています。おしゃか様は「八聖道」という行動の規範を残しておいでですが、わたしにははるかに遠い規範ですし、説明もできるレベルではありません。でも、在家信者にも実行できる「十の善行」はなんとか近づける規範ではないかとおもえますので、書き出してご覧いただきます。1、生き物を殺すこと。2、与えられないものを取ること(盗み)。3、配偶者以外との性行為。4、虚言。5、中傷の言葉。6、粗暴な言葉。7、軽薄な駄弁。8、欲求。9、害意。10、誤った見解。の十です。仏教では意思とその表現である行為をとても大切にいたします。すべてが「前世で行われたことを原因とする」という運命論、「主宰神による創造を原因とする」という主宰神論、すべては偶然であるという偶然論などは仏教では認められません。自身の意思でなす行為の意味がなくなってしまうからです。他律の世界ではなく自律の世界で心を正し、倫理性を高めて生きてゆくことが、自分の将来を明るく楽しくしてくれます。繰り返しそのようにおしゃか様は語りかけていただいたのだとおもいます。「他の人が何をなさなかったかを語ってはいけない。自分が何をなさなかったかを思うことです。」 わたしなんかは自分の生存への渇望を呼ばれる心の奥底にある生存への盲目的な執着に気もつきませんし、気が付いてもその執着を克服しようなんて思いつきもいたしません。でも、おしゃか様は気が付き、瞑想をともなって克服なさっておられます。「切っても切っても根っこが張っていて・・・」と併記されていたように記憶しています。つまり、あらゆる制約を克服なされた精神的に真の自由な方だったのではないのでしょうかと想像しています。

善因善果。

古代インドでは善因善果、悪因悪果という思想はおしゃか様の時代いぜんからありました。おしゃか様は一歩すすめて、積極的に善をなすことを提唱なさいます。バラモン教の祭官による祭式で梵天界に生まれ変わることができると主張する祭官に、「四梵住」という瞑想を教えます。四梵住とは、「一切を自己として」すなわち一切の生類を自己と同様だとみなして、慈しみ、憐れみ、喜び、平静な無量の心で四方を満たすことです。バラモン教では最高神ブラフマンに自己が合一する梵我一如によって梵天界に到達すると説くのに対して、おしゃか様は梵天界に生まれ変わるのは、祭式によってでもなく、梵我一如によってでもなく、利他の心によって梵天界に生まれると説かれます。「一切の悪をなさないこと、善を具えること、自己の心を清めること、これが諸仏の教えである。」と大譬喩経でも説かれています。また、転輪王経では理想的な為政者の条件を挙げておられます。「すぐれた教養ある者からの助言にもとずき正しい法による統治をおこなうこと、貧しい者の生活保障をすることである。為政者が貧しい者の生活保障をしなければ社会は乱れるのである。」バラモン教では王権は神より与えられた王権神授説なのですが、転輪王経では、王自身が王の務めを果たすことによってのみ王権の正統性は保証される。転輪王の正統性は神によってではなく、王の行為そのものによって認められる。この転輪王という為政者の理想像は広く東南アジアからチベット仏教に帰依したクビライ・ハーン、清朝の乾隆帝、また、日本にも天竺の思想として伝えられています。転輪王経に触れて志を持ち、よりよい社会を目指された王様は当時たくさんいらっしたことは間違いありません。わたしたちにおしゃか様が説かれたことは個の自律に他なりません。自分で自己を律しなければ他に自分を律することが出来る存在はありません。より良い明日はわたしたち個々の一人一人が善きことを為して築き上げてゆくものであって、欲望に振り回されず、自らが自らを律するように・・・とおしゃか様は終始説かれ続けました。

思索から実践へ。

自分でホームページを読みまして、我ながら拙い文章にあきれています。わたしの理解不足でやさしく説明ができていないのです。特に、縁起と四聖諦、六処、五蘊の密接な関係など大切な部分ですのに、充分に申し上げれているとはおもいません。ただ、仏教の核心の部分で、わたしにとっても難解です。踏み込みますとおしゃか様のお考えについてもっと申し上げねばならなくなるのですが、そのようなことは私にできることではございません。一つの国の王子様であられた方が、すべてを放棄なさって、出家をなされました。わたしが同じ心を持つことはとてもできるようなことではありません。理解できなくてもご容赦願いたいと思います。でも、おしゃか様が布教に入られてからの社会に与えた影響は大変大きく、いくら讃えても多すぎることはないほど大きいと思います。わたしは二つの大きなテーマがあるように思っています。一つは、それまでの地縁や血縁の意見や習慣、また、人は確固とした霊魂を持ち、祭式で天に生まれ変わらせることが出来ると主張するバラモン教や同じように霊魂を持ち、修行によって汚れを払い、解脱に至ると主張するジャイナ教、あるいは人間は諸要素に還元されるのだから、実在はしないと主張する唯物論などがインド社会の思想の多くの部分であったのですが、仏教は大きく違った価値観を提供したと思います。仏教では霊魂に相当する実在する自己を認めませんでした。仏教でなぜ実在を認めないのかをご説明するためにながながと拙い文を辛抱してお読みいただきました。六処とその対象を合わせて十二処を仏教では一切と申しますが、私たちには自分にとっての一切が十二処であり五蘊です。でもそれは真実ではありえません。したがって仏教では、人は諸要素の集合体に過ぎず、霊魂のような諸要素を統一する主体は存在しないと主張いたします。この点はバラモン教やジャイナ教の主張とは対立いたします。しかし、おしゃか様が説かれましたように、人は渇望を経て執着が起こり、その飽くことなきエネルギーで生存が繰り返されます。この渇望から執着が起こり、生存を作り上げているという思想は当時の古代インドでは初めてであり、とても大きな影響を与えました。それは、生存そのものは繰り返し繰り返し「自己を作り上げる」ことによって成り立っている。という意味です。自分で自分を作り上げる・・・ということは、自分が意思を持ち、行為(実践)すれば将来は自分の思い描いたようになる・・・という意味でもあります。この生存に関する新しい思想は今までの決まった価値観からしか選択できなかった自分の生き方が解放された・・・つまり、個人が自分の生き方を自分で選択できるという意味でもあります。仏教の主たる支援者が知識人、商人、地主層などの都市の住民であったことでも証明されているとおもいます。経済が発達し、今までのバラモン教的な生天思想や、苦行で自己を鍛錬する思想では時代の閉塞感は解放できなかったのだと思います。新しい革命的ともいえる思想の誕生だっのではないでしょうか。おしゃか様が唯物論者の主張する実在は無いという極端もバラモン教の霊魂は存在するという極端も選択しない、わたしは中道を歩む・・・とおっしゃられましたことが、このような意味合いかどうかはわかりませんが、私たちは確固たる不動の霊魂をもった存在ではなく、十二処や五蘊に支えられ、渇望から執着を持ち、一生自分を形作りながら生きてゆく存在なのだとおしゃか様はおっしゃったのだと思います。霊魂があった方が楽そうに思いますがそれは望めないようです。

もう一つ、お釈迦様の残された大きな遺産があると思います。こちらの方が世界的影響を与えているかもしれません。「自律」自己を作り上げる方向についてです。実践として今日の私たちにまでおおきな影響を与えています。そして、もっとも注目してほしい遺産だと思います。