ハイエク3

南禅寺4-500

ハイエクが日本を訪れ、処々で講演をなさった折り、よく”老子,々々”とつぶやいておられたと書かれています。たぶん、彼の中には老子の無為自然なあり方が現代に生かされたら・・・・との思いがあったのではないかと想像するのですが、現実に起こったことは、市場の暴走ともいえる状況でした。どのような思想であれ、その用い方を誤れば、両刃の剣となります。社会主義経済はソ連の失敗によって研究されることもなくなりました。ただいまは個人主義(自由主義)の発想しかありません。ハイエクは競争の必要を説きました。思想上の競争が全くない今日は健全とは言い難いのではないでしょうか。

 

ハイエク2

大河内山荘から京都市内を望む-500

ハイエクを読んでいまして、60年も昔を思い出して、まことつまらない事々を申しました。ハイエクという方は、ただいまは賛否相半ばするような、まことにお気の毒な状態ですが、経済学者としてよりも、隣接する社会学や哲学の分野で発言される内容のほうが示唆に富み、魅力を感じているのですが・・・・ともかく、ハイエクはマルクス経済学の欠点を論理的に説得力を以って展開され、事実上、社会主義の計画経済を破綻に導いた・・・・と言われています。特に、ドイツのナチスと社会主義は全体主義として同質であるとの見解は当時”目からうろこ”の感がありました。飛ぶ鳥落とす勢いのあったハイエクですが、数十年たった最近は非難なさる方が少なくありません。

いまになれば

藤井絞りアップ1-500

こんにち、ブルジョワとプロレタリアの階級闘争などと申しましても、ほとんどの人はその意味さえ分からないでしょう。でも、昭和二十年代末から三十年代にかけて、本気で信じる人もたくさんいました。平たく申しますと、金持ちがいるのはけしからん!・・・と。引きずりおろしてみな同じく貧乏になろう・・・・と思った・・・のが本音ではなかったのかな?と思います。事実、日本が高度経済成長に向かいますと、わたしのような不純な動機の浅薄なエセコミュニストはいとも簡単に転向いたしました。皆でブルジョワになろう!と言われた途端、その方が好き・・・・と思ったのです。でも、恥ずかしかったのでしょう、友人ともども親鸞に傾倒したり、一応、格好をつけて悩んだりしていました。もっとも、友人の名誉のために申しますが、筋金入りの人はいまも革新の最前線で活躍しています。

無謬性

木屋太アップ-500

わたしも含めて友人たちが共産主義に魅了された大きな理由は、その無謬性でした。完全な理論であり、これで世界は平等で平和な時代が実現する・・・・他の思想は人類にとって悪である・・・若気の至りと申しましょうか、まことに短見でした。この不可知な人間、その人間が集まって作る社会が一つの考え方の下に誰もが満ち足りた生活を営める・・・・その無謬性が人間という存在と相いれないものがあると思うのです。人類はベターなものを試行錯誤しながら探してきました。完全な人格があり得ないように完全なシステムもあり得ない・・・・という謙虚な気持ちが根底にないとまた大きな誤謬をおかすのでは・・・・と思います。

コミュニズム

三宝寺1-500

わたしは昭和十四年生まれですので、戦中派とはいえない、ほとんど戦後派の世代です。ものごころつく中学生のころは共産主義がもてはやされ、京都はとくにその傾向が強く、わたしたちはその洗礼を受け、マルクスやエンゲルスの著作などは友達との間で大いに話題になりました。すべての人が平等に生きれる理想の社会が実現される!そのように信じました。その前の世代が、日本は必ず勝つ・・・・と信じたように。その後スターリンの恐怖政治、中国の文化大革命・・・と理解できない数々があり、共産主義も次第に色あせて見えるようになってまいります。それ以来、どのような理論が世を覆っても、そうかな?と無関心に過ごしてまいりました。

ハイエク

小千谷の雁木通り-500

写真は小千谷の雁木通りの写真の一枚です。わたしも積雪の多い丹後地方の生まれですので懐かしい風景です。写真とは関係がないのですが、昨年から70の手習いで経済関係の本をぽつぽつと読んでいます。発端は、アベノミクスが話題になったとき、友人が”ハイパーインフレを招くね”と言ったことに自分でも勉強して事実を知りたい・・・・と思ったことにはじまります。ただいま、ハイエクを勉強しています。

久しぶり・三宝寺池

三宝寺・厳島-500

三宝寺・藤の花-500

今日は天気も申し分のない散歩日和でした。ひさしぶりに三宝寺池の散歩を楽しみました。池の周りを二周、やく30分ほどの散歩です。厳島神社のお堂のまわりも新緑に覆われていました。池の水面に立つさざなみも春をすぎ新緑の雰囲気です。石神井城址の木立にからむ藤の花はもう少しすると盛りを迎えると思います。75歳になって足腰も散歩にたえるからだでいられることに感謝です。